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正倉院の記事(伝正倉院古墨)

正倉院の記事(伝正倉院古墨)

日本の墨についての記録は「日本書紀」巻22に、「推古天皇の18年春3月、高麗王、僧曇徴を貢上す。
曇徴よく紙墨をつくる」というのが最も古いものとされています。今日では最古の墨として正倉院に中国と朝鮮の墨が保存されていますが、この文章からするとこの墨は、当然のことながら朝鮮を経てきたものだということがいえます。
今日、正倉院に伝えられている墨は、中国と朝鮮のもので次のようなものです。
番号
長 cm
幅 cm
厚 cm

備考
1
53.0
6.3
2.0


2
29.6
5.0
1.9

表に陽文で○華烟飛竜鳳○皇極貞家墨○とあり、各文字の間に星形がある(○印の所に朱点)
裏に朱書で開元4年丙辰秋作貞□□□□とある。
3
26.9
0.9

白 墨
4
2.9
1.1

白墨の断片
5
26.6
4.2
1.2


6
26.1
3.3
1.3

銘・陽文○新羅武○家上墨○(○印朱点)
7
25.4
3.4
1.6

8
25.4
3.3
1.6

9
24.2
3.2
1.6

銘・陽文○新羅楊○家上墨○(○印朱点)
10
22.2
2.9
1.6

11
21.8
3.4
1.3

12
17.1
2.9
1.0

13
12.6
1.3

一端が破損
14
5.9
0.9

完形
15
12.5
3.2
1.2

1/3程度破損
16
11.0
2.6
1.1

破損あり
しかしながら古墳時代の壁画などには、墨、朱、緑、黄などが見えるところから、もっと早い時期から外国より伝わっていたという説もあります。推古天皇の時代は、中国の仏教文化の影響を受け、日本でも写経なども盛んに行われるようになり、輸入だけでは需要に追いつかず、製造するようになったと考えられます。

文武天皇の大宝元年(701年)制定された大宝律令によれば、中務省の図書寮に造墨手4人を置いたとあり、延喜式(927年)にも図書寮の項に「凡そ年料に造るところの墨400挺(・・・中略)長上1人・造手4人」とあり、神祇官に墨1挺、斎宮寮に3挺というように配分の記録があります。また、この項には墨店、筆店の名が見え、いわば官製のほか民間でも製造販売していました。

正倉院文章の中には、価格が表示されている記録もあります。昭和36年、平城京の中心であった平城宮が国立文化財研究所の手によって発掘調査が行われましたが、その出土品の中に、墨を用いたと思われる遺品があります。大別すると次のようになります。

  1. 木片に墨書したもの(木簡)約2万点以上
  2. 土器類に墨書したもの多数
  3. 硯(獣脚硯、円面硯、風字硯、鳥型、亀型硯、など)約150点
  4. 水滴(型種々あり)
  5. 小刀(木片に墨書して誤字訂正のため木片を削って書き直したものと思われる。それに使用した小刀と、削屑に墨のついたもの多数出土)

これらの出土品は、全国各地から平城宮に届けられたものです。

平安朝図書寮工房(延喜式造墨法)…年料400丁
地方別料貢物 播磨国…年料350丁掃墨(松煙)2石
丹波国…年料250丁掃墨(松煙)1石
九州太宰府…年料450丁

この記録は、墨が年貢として扱われていたもので、墨造りが地方でも行われていたことを示しています。

「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長)日貿出版社 より