墨の歴史 日本編
日本書紀の記事
日本の墨についての記録は「日本書紀」巻22に「推古天皇の18年春3月高麗王、僧曇徴よく紙墨をつくる」というのが最も古いものとされています。今日では最古の墨として正倉院に中国と朝鮮の墨が保存されていますが、この文章からするとこの墨は、当然のことながら朝鮮を経てきたものだということが言えます。今日、正倉院に伝えられる墨は、中国と朝鮮のものです。しかしながら古墳時代の壁画などには、墨、朱、緑、黄などが見えるところから、もっと早い時期から外国より伝わっていたという説もあります。推古天皇の時代は、中国の熱心な仏教文化の影響を受け、日本でも写経なども盛んに行われるようになり、輸入だけでは需要に追いつかず製造をするようになったと考えられます。
文武天皇の大宝元年(701年)に制定された大宝令によれば、中務省の図書寮に造墨手4人を置いたとあり、延喜式(927年)にも図書寮の項に「凡そ年料に造るところの墨400挺(....中略)長上1人造手4人」とあり、神祇官に墨1挺、斎宮寮に3挺というように配分の記録があります。また、この項には、筆店の名が見え、いわば官製のほか民間でも製造販売しておりました。
「The 墨」 松井茂雄著(前墨運堂社長) 日貿出版社 より
奈良墨のおこり・松煙墨
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